Last updated: December 7, 2002

『通訳・翻訳ジャーナル』 2002年7月号

日本通訳学会特別企画
通訳の世界を広げる
現代通詞考

第14回 通訳の今・昔 (1/2)

鳥飼玖美子 (とりかい くみこ)
立教大学大学院  異文化コミュニケーション研究科教授
日本通訳学会 副会長
 

通訳と翻訳
通訳と翻訳とは厳密に言えば仕事の内容は異なりますが、言語を「訳す」という根本は同じです。英語では、通訳はinterpretationですが、translationと言えば通訳も翻訳も両方を意味します。しかしながら日本では、この両者はどちらかと言えばこれまで峻別されてきたと言えます。

明治の近代化はもとより日本のこれまでの歴史を振り返れば、海外から他国の文明を学び、吸収する方策として翻訳が多大な役割を果たしたことから、同じ「訳す」という営みであっても、翻訳の重要性は従来から認められてきたと言えます。ところが音声言語についての日本人一般の感覚は、「沈黙は金」という価値観に支配されているかのようです。阿蘭陀通詞の職務内容を記載した江戸時代の文書に「口を存じ候」という表現が出てきます。意味は「オランダ語会話が出来て、通弁が出来ること」を指しています。雄弁よりは沈黙を重んじる文化で、「口」を生活の糧にすることが尊ばれたとは言えません。それは、そのまま通訳と翻訳に対する意識の差になって表れています。例えば翻訳をする人間は「翻訳家」と呼ばれるのに対し、通訳の場合は、「通弁」は消滅したものの、単に「通訳」と呼ぶことがいまだに主流であり、稀に「通訳士」「通訳者」が登場しても、決して「通訳家」ではないことにも象徴されます。

通訳者は現在も多くの日本人にとって、一方で、ことばを操る特殊な存在でありながら、他方では、通訳なんてちょっと英語ができればこなせること、という感覚もあるのではないでしょうか。さらに言えば、言葉を操る特殊な存在という際にイメージされるのは、むしろ機械的に単語を変換する自動装置としての特殊性であり、だからこそ通訳をするにあたっては背景の知識が不可欠であるという基本的なことすらなかなか理解してもらえないという状況が生まれます。同時に、たかだか英語をしゃべる機械ならば無料で使える手近な英語使いで済ませよう、と考えることになるのも自然な成り行きかもしれません。

そこには、人間にとって言語の何たるか、言語が不可避的にかかえる文化の問題、コミュニケーションという行為がはらむ言語と文化の葛藤について、などについての深い認識が欠如しています。結果として、そのような言語とコミュニケーションを扱う専門職としての通訳への理解も欠けています。

通訳訓練
以上のような通訳観から出てくる問題は、我が国における通訳訓練にも反映されています。ジュネーブに本部を持つ国際会議通訳者協会(AIIC)は、世界の通訳訓練機関を3ランクに分けて認定していますが、大学院レベルでの教育を前提としている為、日本の教育機関はリストに入っていません。

通訳者・翻訳者の訓練は大学院レベルで実施することが常識の海外と比べ、日本におけるこれまでの通訳訓練は主として、民間の外国語学校か国際会議運営会社付属の訓練機関で実施されるのが常でした。こういった機関での訓練は、実技訓練を主体とし、一日も早く現場に出すことを目的としているわけですから、通訳翻訳理論や異文化コミュニケーション論の学習などが省みられることは稀であったと言ってよいでしょう。わずかに国際基督教大学の同時通訳コースで、コミュニケーション理論の専門家による訓練が実施されていた程度で、大方は民間の訓練機関で、理屈をこねるよりは現場で先輩の芸を盗みながら覚えていく、という訓練方法でした。

従って10年ほど前は、大学の学部レベルでさえも通訳コースを設置することに違和感があり、アカデミックな場にそぐわない、と反発がみられたものです。文学部で翻訳論の講座が設けられることは珍しくなくても、通訳というのは完全な技術訓練以上のものではなく、研究に値するものでもなければ、理論化が可能な学問領域とも考えられていなかったわけです。

しかし最近は、認知科学の発達により、同時通訳プロセスの解明が研究課題として盛んに取上げられるようになってきています。応用言語学、異文化コミュニケーション分野でも通訳・翻訳は独自の研究領域として認知されてきているのが海外での動向です。

日本でも、ここ数年来、コミュニケーションに使える英語教育への強い要請に後押しされ、学部レベルに通訳コースを設置している大学が20校を越えるまでになりました。大学院レベルに関しても、大東文化大学、目白大学、常葉学園大学など数校に科目が設置されるようになりました。2002年4月からは立教大学大学院に異文化コミュニケーション研究科が開設され、通訳翻訳領域において異文化コミュニケーションという視点から通訳・翻訳に関する研究と教育が実施されます。
  
最後の国語審議会となった第22期国語審議会は2000年末に答申を出し、日本人にとって必要な言語コミュニケーション能力について明確な指針を提案し、国語審議会史上初めて、通訳・翻訳の重要性を指摘し、以下のように提案しました。

「通訳は、高い母語能力と外国語能力、言葉の文化的背景を含む幅広い教養など高度な能力を要する専門職である。我が国における通訳教育は、大学のほか、外国語学校、民間企業などで行われているが、今後は大学における学部・大学院の教育を充実し、国際化に対応するための日本の人的資源として、高度に訓練された職業通訳者及び高い見識を有する通訳理論の研究者を養成することが望まれる。」

これからの通訳
国境を超えて人間や情報が往来する21世紀社会にあって、通訳の重要性は一段と増すでしょう。そしてその業務の内容は、機械翻訳の守備範囲を越えるような極めて人間的要素の強い場面においての交渉、対面コミュニケーションが強く要請されるような場での微妙な折衝など、困難な作業が宿命となるのではないでしょうか。

機械翻訳や音声通訳装置の技術進歩が期待されるにしても、国語審議会答申が指摘するように、「場面に応じ、発言の背景となる文化や状況、人間関係などを踏まえ、言葉の微妙な意味合いまで訳し出すことは、人間にのみ可能である」わけで、「今後、質の高い通訳の重要性はさらに増大するものと考えられ」ます。
 
そのような時代にあって、これからの通訳者の使命もしくは規範というものは、どのようになるのでしょうか。電子辞書が普及し、インターネットでは無料翻訳サービスが提供されている時代に既に入っており、音声を伴う自動通訳装置は数年後には実用化されると予想されています。決まった範囲の通訳や翻訳は機械に任せることがいずれ当たり前になり、簡単な日常会話程度なら小型通訳装置が各国語の通訳を行ってくれる日も遠くありません。そのような時代における人間の通訳者の役割はどのようなものになるのか。透明な存在としての通訳者に徹するのか。異文化の橋渡しを任務とこころえ、場合によっては積極的に介入し文化の仲介者としての役割を果たすのか。

「人間にのみ可能」である「質の高い通訳」の内実は、どのようなものであるべきなのか。これらは、さまざまな要因を考慮に入れた地道な実践研究を通して、通訳者自らが答えを模索していかなければならないことです。 
 

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[執筆者プロフィール] 立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科教授(研究科委員長)。上智大学外国語学部卒業。コロンビア大学大学院修士課程修了。会議通訳者を経て、1997年より立教大学教授、2002年より現職。NHKテレビ「英会話」講師。国語審議会委員、観光政策審議会委員等を経て、日本ユネスコ国内委員会委員、国立国語研究所評議員。日本通訳学会・副会長。日本翻訳家連盟理事。著書『異文化をこえる英語』(丸善ライブラリー)、『歴史を変えた誤訳』(新潮OH文庫)『プロ英語入門』(講談社インターナショナル)、『TOEFL・TOEICと日本人の英語力―資格主義から実力主義へ』(講談社現代新書)など。
 
 


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